経済学部:多くの日本人がいた町ダーウィン《鎌田教授》

本学経済学部の教員、鎌田真弓先生の論文「ダーウィンの真珠貝産業と日本人」をご紹介します。鎌田先生は津田塾大学大学院国際関係研究科修士課程及びグリフィス大学大学院修士課程を修了後、オーストラリア国立大学(ANU)大学院太平洋研究科博士課程を修了され、Ph.D.を取得されました。ナショナリズム、先住民政策、オーストラリア研究、国際関係論を専門に研究されています。
19世紀末から20世紀にかけて、ダーウィンやブルームや木曜島といったオーストラリア北部の町には、多くの日本人が暮らしていました。ダーウィンのガーデンズ墓地には16基、パーマストン墓地には10基の日本人の墓石が残っています。碑銘から読み取れる最も古い日本人の墓は、1893年2月8日、ソウヘイ・ハマムラ(生後7ヶ月で死亡)で、当時ダーウィンで真珠貝採取業を営んでいたイスヘイ・ハマムラの息子であると思われます。本論文で先生は、ダーウィンにおける真珠貝採取産業の歴史を概観し、かの地で働いた日本人の軌跡を追っておられます。
ダーウィンの真珠貝産業と日本人
鎌田真弓
1.はじめに:ダーウィンの墓石
ダーウィンの中心街からほど近い公園区域(植物園やゴルフコース、テニスコート、クリケット競技場などがある)の中にガーデンズ墓地がある。海にはヨットが浮かび、夕日が美しいミンディル・ビーチやカジノは観光客の人気スポットである。この古い墓地に16基の日本人の墓石がある。ガーデンズ墓地は、ダーウィンで2番目に古く、1919年から1970年まで利用されていた。5人の日本人の名前が刻まれた「ナマコ採集者遭難記念碑」はその墓地の一角にある。
和歌山縣西牟婁郡周参見町 君島典蔵 行年四十五才
同縣 同郡 和深村字和深 柴崎菊松 行年四十二才
和歌山縣東牟婁郡高池町池ノ山 東由太郎 行年三十四才
同縣 同郡 西向村字姫 田中保一 行年三十三才
鹿児島縣姶良郡清水村姫城 稲盛庄助 行年四十四才
昭和七年九月一七日亡
1932年アーネムランドの東海岸のカレドン湾(Caledon Bay)でナマコ漁中に地元のアボリジニに殺害された日本人漁師である。
ガーデンズ墓地の東、スチュアート・ハイウェイ沿いには、ダーウィン開設時に開設されたパーマストン墓地(1865―1919)がある。1230人が埋葬されたという記録があるが、現存する墓石は146基、ここにも日本人の墓石が10基残っている。碑銘から読み取れる最も古い日本人の墓は、1893年2月8日、ソウヘイ・ハマムラ(Sohei Hamamura 生後7ヶ月で死亡)である。同じ墓地に眠るマーティン(Martin 生後7週間で死亡)とともに、当時ダーウィンで真珠貝採取業を営んでいたイスヘイ・ハマムラ(Isuhe Hamanura)と妻オフジの息子たちであると思われる。ハマムラは1892年当時3隻の真珠貝採取船を所有していた。娘のクレオパトラ(Cleopatra)は、真珠貝採取業や農牧場経営、製パン業、製氷業などを幅広く営んでいたダーウィンの実業家ホームズ(Felix Ernest Holmes)と結婚している。
19世紀末から20世紀にかけて、ダーウィンやブルームや木曜島といった豪北部の町には、多くの日本人が暮らしていた。本稿では、ダーウィンにおける真珠貝採取産業の歴史を概観し、かの地で働いた日本人の軌跡を追う。