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自分のパフォーマンスが一番上がる場所に身を置く【上編】

#山岡隆志 #葉村真樹 #マーケティング #商学部 #名古屋商科大学


山岡隆志 先生(以下、山岡と表記):葉村さんは色々なキャリアをお持ちで、大変興味深いお話が伺えると思いますから、まずは簡単にご経歴をお伺いできますか。

葉村真樹 様(以下、葉村と表記):もともと、日本で政治学の学位を取得して、その後アメリカのコロンビア大学(大学院)へ留学しました。

山岡:コロンビア大学は学部を卒業して、すぐに行かれたんですか。

葉村:そうです。そのまま行きました。当時、日本の大学院での都市計画研究は、バブル期という事もあり、「建築物を造るなどハードを使ってより効率的に」という潮流でしたが、海外ではもっと学際的なアプローチで行われていました。例えば、都市計画の研究を建築系で行っている大学院もあれば、社会学系で行っているところもありました。コロンビア大学は建築系で行っていますが、都市社会学を専門にされている教授がいらっしゃり、僕自身、東京の一極集中を社会学や経済学的なアプローチで再考して、今後の都市計画を考えてみたいと思っていましたので、コロンビア大学(大学院)への進学を決めました。振り返ってみると、50才を過ぎる頃まで、この考え方が仕事上でのベースになっていますね。

山岡:その後帰国され、社会人キャリアをスタートさせたわけですね。

葉村:ええ、そうです。富士総研に入社しました。いわゆるシンクタンクですね。入社後は、国交省・経産省・通産省からの委託研究や調査を行っていました。政策の実行を推進するために色々な調整役も担いましたが、実際の世の中はなかなか変わらない。ご存知の通り、その後は景気が回復し、開発が進んで人口の都心回帰が起こりましたが、当時はバブル崩壊直後でしたので、変化があまり起きにくい状況でした。ですから、何かプランニングをして、それを実際に実行できて、世の中に何かしらのインパクトを与えることができる仕事をやりたい、それならばマーケティングの仕事だと考えて、博報堂へ転職しました。

山岡:それで富士総研から博報堂なのですね。なかなか珍しいキャリアチェンジなので伺いますが、そこのジャンプアップはどんな感じでしたか。

葉村:インターネットもさほど普及していない時代ですから、当時話題になっていた新聞での一面広告をみて、普通にイチから応募したっていう感じです。規模としては電通の方が倍近く大きかったのですが、博報堂はフォロワーならではのポジションを活かして、お客様の課題解決に丁寧に力を注いでおり、そのためのマーケティングソリューションの提供を行っていましたので、電通ではなく博報堂を選びました。当時、実は博報堂でもマッキンゼーやアクセンチュアなどコンサルティングファームでの経験者を積極的に採用し、コンサルティングビジネスも担い始めていました。入社後、隣に座っていたのがマッキンゼー出身の人で、後ろに座ってた人がアクセンチュア出身の人でした。

山岡:どちらかというとクリエイティブな企業文化があると言われる博報堂では、どのような業務を担当されていたのですか。

葉村:僕はプランナーですね。

山岡:ストラテジックプランナーということですね。伺ってみると、それまで富士総研というシンクタンクでの経験が博報堂でも活かされていて、キャリアがつながってるわけですね。

葉村:そうです。もう少し具体的にいうと、How to sayの部分はクリエイティブ部門がするのですが、その手前の段階のWhat to sayとか、When to sayというストラテジックな部分を担っていました。

山岡:その後、次のデジタル時代の到来を読まれて、ソフトバンクへ移られたわけですね。

葉村:そうです。ただ、ソフトバンクの前にGoogleへ行きました。

山岡:ほお。Googleが先で、ソフトバンクが後なのですね。それもまた珍しい。

葉村:今から思えば、おっしゃる通り珍しいですよね。でも僕がソフトバンクへ移る理由は色々ありました。消極的理由としては、Googleは初めての外資系企業でしたので、単純に日本企業へ戻りたくなったから。他方、積極的理由としては、その当時は2010年頃でしたので、Ustreamという動画配信のプラットフォームがあったのですが、これからはライブ配信とかも含めて、本格的な動画配信時代が来るだろうと思ったからです。

山岡:とはいえ、まだ3Gの時代でしたよね。

葉村:そうなのです。だからちょっと先読みしすぎたかな?とソフトバンクに移籍直後から感じていました。実際、Ustreamを担当すると聞いて、朝8時に出社したその初日に、今ソフトバンクの社長の宮内さんが当時は副社長をされていて、彼から「Ustreamやるって言ってたけどやっぱり変わったから、iPhone担当してくれる?」って言われました。

山岡:それは面白いエピソードですね。

葉村:ええ、まあそうですね。でも、言われた方は突然でしたので驚きましたよ。

山岡:そして次がTwitterなのですね。

葉村:はい。そうです。ソフトバンクでの仕事も充実していましたが、内心ではインターネット業界に戻りたくて、なかでもTwitterが好きだったのです。そうすると、Google時代の同僚がアメリカで働いていて、彼からTwitterがそろそろ日本法人設立を画策し始めていると聞き、これはもう行くしかないと思いました。面接は1人あたり1時間半くらいを8人から受けました。

山岡:すごい。さすが外資系ですね。国内企業とは採用の文化が違いますね。

葉村:全く異なりますね。最後の3〜4人との面接は自腹でサンフランシスコまで行きました。こんなに回数がかさむとお金も続かないので、すごい汚く安いホテルに泊まりました。絶対に落ちたくないなと思いましたね。だから、無事に採用された時は嬉しかったですね。

山岡:素晴らしい経験ですね。その後、Twitterでは何年くらい働かれたのですか?

葉村:Twitterは3年ですね。

山岡:今の時点から客観的に葉村さんのキャリアを拝見すると、Twitter時代はさらに目覚ましいご活躍をされていた気がするので、正直そこから次にLINEに移られたのは何故かなと思っていました。もう少し長期間に渡るTwitterでのキャリアもあったのではないかと感じますが、そのあたりのお話をお聞かせいただけますか。

葉村:実は、TwitterとLINEの間でちょっと他の会社にも行ってたのです。

山岡:PwCに行かれたのでしたっけ?

葉村:ええ、PwCも行きましたが、PwCの手前に短期間、小規模のベンチャーをやっていました。当時、僕は40代後半で、それなりに色々な経験もしていたから、自分に自信がついてきて「何かすごいことをやれる!」って思っていました。ところが、このベンチャーがなかなか上手くいかなかったのですよ。

山岡:そうなんですね。博報堂時代には数多くの受賞歴をもち、Google・ソフトバンク・Twitterでも目覚ましいご活躍をされ、過信もあったのでしょうか?

葉村:ええ、まさにそうですよね。でも、実際にはベンチャーがどうにもならなくて、ベンチャーはダメでもコンサルならできるだろうということで。なんとか拾っていただいた感じです。

山岡:その後、LINEを辞められたのは、どういう経緯があったのですか?

葉村:実は、ある大学からお声がけを頂いたのがきっかけなのです。

山岡:そうでしたか。

葉村:大学での仕事は、以前からすごく興味を持っていました。でも、LINEでは役員を務めており、法人事業戦略担当という重責も担っていましたから、大学の仕事と並行するのは難しい。とすれば、LINEではフェロー、つまりわかりやすく言えば、正社員じゃなくアドバイザリーのような形での参画程度にならざるを得ない。僕はビジネスの最前線にいるのが好きなので、事業との関わり方がアドバイザリー的ではつまらないなあと思っていたところ、パナソニックからお声がけを頂きました。

山岡:そういう展開ご縁って良いですよね。

葉村:ええ、そう思いました。それで二足のわらじを履こうと決めました。ありがたいことに、他にもコンサルからお声がけ頂きましてね。

山岡:そうでしたか。葉村さんがSNSに、「アカデミックなことに興味があります」ってお書きになっていたので、次はどういう展開なのだろうとびっくりしながらも楽しみにしていました。

葉村:1年くらい前ですね。

山岡:論文は必要かみたいな、会話がどんどん具体的になっていかれたので、葉村さんは大学の教員に興味があるのだなと。だから私のようにビジネススクールのような経営の分野に来られるものと思っていました。でも、実際には都市系の先生をされると伺い、本当に驚きました。

葉村:確かにそういうお声や反響をたくさん頂戴しましたね。でも実は、東大で博士号をシンクタンク時代に取得していまして。まぁ最終的に論文が通ったのは、博報堂時代なのですけれども。

山岡:そうなんですね。すでに準備されていたわけですね。


葉村:今ではちょっと早すぎたかなと思ったりしますが、20代の頃から50才になったらそれまで社会で学んだことを若い人たちに戻していきたいなあと思っていました。そしたらたまたま大学から50才の時にお話を頂いたので、これは受けた方が良いなと。

山岡:そうですよね。大学の教員になろうとしても、なかなか普通に公募でというのは大変ですからね。あちらからのお声かけは素晴らしいチャンスですよね。ちなみに、博士号を取得しようと思われたきっかけはどんなことですか。

葉村:二つ理由がありました。一つ目は先ほどお伝えした通り、50代や60代は自分の経験などそれまでに得たものを、体系化するなり研究するなりして社会に還元していきたいと思っていたから。二つ目は、シンクタンクにいた20代の頃に、公の委員会や審議会の先生方と沢山お付き合いがありましたが、もうちょっと要点をまとめてロジカルに発言した方が良いのではないかと思っていました。

山岡:あはは。なかなか手厳しい。

葉村:で、これはやっぱり社会のためには、僕が先生になってなんとかしたいなあと思っていたのですよ。というのも、当時20代の僕がシンクタンクの研究員としてどんなにロジカルに正論を話しても、聞く耳を全く持っていただけない。でも、同じセリフを ”先生” がいうと「なるほど」と聞き入れてもらえるわけです。

山岡:それで、ご自身が “先生” になろうと思われたわけですね。

葉村:そうです。

山岡:面白いですね。やっぱり葉村さんの中ではちゃんとストーリーがつながっているわけですね。とすれば、都市計画系を学術的にも極められていて、今はそこのキャリアがメインになっているけど、マーケティングとかビジネス系のキャリアも豊富で、その専門知識も高い。両方のキャリアを有している人は、なかなかいませんのであえてお尋ねしますが、将来的にはどんなキャリアを描いていらっしゃいますか?二つのキャリアを融合していくのか、あるいは片方に絞って垂直方向に進まれるのか、すごく興味があります。

葉村:実は、そこがまだわかっていませんね。

山岡:そうなのですか。何か直感的なものくらいはお持ちの気がしますが。

葉村:振り返ってみると、自分の意志に関わりなく、あえて意図的に、キャリアもサーフィンみたいに波に任せてきたというか。

山岡:あぁ、それ良い表現ですね。その感覚、共感できます。

葉村:そう思うようになったきっかけがありまして、その一つは、高校時代からの親友が若くして亡くなったことです。

山岡:そうでしたか。

葉村:彼も僕も、高校時代に水球をやっていて、彼は国体にも出場したくらい、僕なんかよりもほんとにうまくて、健康そのものでしたが、30代前半にガンで亡くなったのです。なんかそれを見て、妙に変に人生を勝手に設計することはやめようと思ったのですよ。逆にいうと、いつ死んでも良いように今を生きようと思ったのです。

山岡:なるほどね。それはご友人から残されたものへの意義深いメッセージですね。

葉村:ええ、本当に。ちょうどそれが博報堂時代です。だから、いま自分のパフォーマンスが一番必要とされていて、自分のパフォーマンスが一番上がる場所に身を置こうと思ったのですよ。
葉村真樹氏へのインタビューは【中編】へと続きます。

<葉村 真樹氏プロフィール>

東京都市大学総合研究所・大学院総合理工学研究科教授、パナソニック株式会社ビジネスイノベーション本部事業戦略担当。Google日本法人で経営企画室兼営業戦略企画部統括部長、ソフトバンクでiPhone事業推進室長、Twitter日本法人でブランド戦略部門日本及び東アジア統括、LINEで 執行役員(法人事業戦略担当)を勤めたのち現職。富士総合研究所(現みずほ総合研究所)で研究員としてキャリアをスタート。博報堂在籍時には、ストラテジックプランナーとしてNYフェスティバルAME賞、MAA The GLOBES Awards 金賞、マーケティング朝日賞大賞などを受賞。 コロンビア大学建築・都市計画大学院修士課程修了、東京大学大学院工学系研究科博士課程修了、博士(学術)。